注文の多いラーメン店
 
物事には限度というものがあります。限度を越えると、そこには怒りや悲しみなとの感情が生まれます。これは私と彼女の普段の会話であります。
「お腹減ったー、何か食べようよ」
「何食べたいの」
「んー、なんでもいいよ」
「じゃ、ラーメンにしようぜー」
「えー、ラーメンそんなに好きじゃないし」
「じゃぁマックでいいか」
「マックって気分じゃないなー」
「じゃぁ焼肉にするか、あそこそんな高くないし」
「えー、2人で5000円は高いよー」
「だったらこの先に松屋あるじゃん、松屋でいいよ松屋で」
「せっかく外食なのに松屋なんてやだよー」
「あーもうデニーズでいいよ、何でもあるから」
「デニーズこないだ行ったばっかじゃん」
「何でもいいと言っただろ!だったら何が食べたいんだ!」
「サイゼリアがいい」
何故に最初からサイゼリアに行きたいと言ってくれないのでしょうか。それとも寝ずに考えたとっておきの嫌がらせなんでしょうか。腹が減る度に繰り返されるこの儀式、なんとかならないものでしょうか。人間怒ると腹が減る。おいしく食事をするために編み出した高度なテクニックだと思わないことには、やってられません。

何でもいいというのはつまり、お任せしますと受け取るのが当然だと思います。委任状にサインするのを省いているだけで、つまりは委任しているわけです。なのに言うのは文句ばかりなわけで。こちらとしては安直に「ラーメン」と言ってるわけではないのです。自分の好みと彼女の好み、最近食べたものを思い出しながら、そして懐具合と相談しつつの「ラーメン」なのです。ですから私の発した「ラーメン」という言葉は単なる「ラーメン」ではなく、様々な思いのつまった「ラーメン」という、大変に深みのある言葉なのです。そのあたりを理解した上での優柔不断だとしたら、それは限度を越えていると思います。

団体行動をする上で、意見を言わない人が居ます。言わない、つまり文句はないというのであればこれは立派に団体行動を考えているわけですが、物事が決まりかけた時になって初めて「嫌だ」と意見する人が居ます。だからといって代替案を出すでもなく、です。何か常人では理解できないような深い思慮があるのかもしれませんが、そもそも常人であるその他の人たちに理解されるわけでもなく、困った人だと思われて終わってしまうわけです。

世の中娯楽はバッティングセンターだけ。食べ物屋はラーメン店だけ。そんな世の中を待ち望みます。
 
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