1998/08/22 更新
幽霊を見たという人は多い。霊魂の存在を信じている方もたくさんいるだろう。心霊写真もいっぱいだ。まじめに霊魂の存在について考えて見よう。
あなたの隣によりそう霊の写真。
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霊魂って何? |
もし、霊魂がが実在し、生命の主体であるのならば? |
霊魂って何? |
霊魂について辞書をひいてみると、次のように記述されている。『たましい。人間の中にある精神的実体』とある。そうか、精神的な実体だそうだ。人間を人間たらしめる物か。じゃあ、霊の老舗、キリスト教ではどの様に言われているのか? 聖書を見てみよう。ヨハネによる福音書6章63節である。『人を生かすものは霊であって、肉は何の役にもたたない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。』 そうか、キリストも人間の実体は霊だと言ってるぞ。うーん。お寺でも水子とか、身内の霊を祭るしなあ。幽霊を見たという人はたくさんいるし、人は生まれ変わるともいうし。もし、生まれ変わるとすれば、生まれ変わりの実体である霊魂がなくっちゃ、困るもんね。そうか、霊魂はあるということにしておこう。めでたし、めでたし。でも、ちょっと待て?
もし、霊魂がが実在し、生命の主体であるのならば? |
でも、人間の実態が霊魂だとして、霊魂がいろんな事をしているとしたら、ちょっとおかしいぞ。だって、霊魂が人間の主体で、霊魂が色々見たり聞いたりしているとしたら、人間の体は何の為にある? 脳みそは何の為にある? 鼓膜は何のためにある? 網膜は何のためにある? 考え、聞いて、見るためではないのか?もし、霊魂が実在し、これが人間の主体だとしたら、これらの器官は無用のものだ。でも、これらがなくなればそれらの機能は失われる。じゃあ、お寺では何の為に霊を祭っているんだろう? そもそも、仏教では霊魂をどのように捕らえているんだ? 面白い事にお釈迦様は霊魂が存在するなんて一言も言っていない。どちらかと言えば否定的だ。『ミリンダ王の問い』という、有名な書物がある。ギリシャ人であるミリンダ王と、仏教修行者であるナーガセーナとの対話をまとめたものである。ここで西洋的な霊魂観を持つミリンダ王が、霊魂とか魂についてナーガセーナに問い掛けるとすべて否定されてしまう。少し長いがそのまま引用してみよう。ナーガセーナは言う 『大王よ、五つの門の事をお話しましょう。それを聞いてください。よく注意
してください。もしも内にある霊魂が、眼によっていろかたちを見るのであるならば、あたかも、ここの宮殿に坐っているわれわれが、どれでも見ようと欲する窓によっていろかたちを見ることができる。すなわち東の窓からも、西の窓からも、北の窓からも、南の窓からもいろかたちを見ることができるのと同様に、内にあるこの霊魂は、眼によっていろかたちを見、耳によってもいろかたちを見、鼻によってもいろかたちを見、舌によってもいろかたちを見、身体によってもいろかたちを見、意によってもいろかたちを見るに違いありません。』 『尊者よ、そういうことはありません。』 『大王よ、それと同様に、舌に味が置かれたとき、<内にある>かの霊魂は、「酸っぱい」あるいは「塩からい」あるは「にがい」あるいは「辛い」あるいは「渋い」あるいは「甘い」ということを知るでしょうか?』 『尊者よ、そうです。知るでしょう。』 『ところが味が身体の内部にはいったとき、「酸っぱい」あるいは「塩からい」あるは「にがい」あるいは「辛い」あるいは「渋い」あるいは「甘い」ということを、その霊魂は知るでしょうか?』 『尊者よそうではありません』 『大王よ、ここに、眼
といろとかたちとによって眼の識別作用が生じ、接触と感受と表象と意思と統一作用と生命力と注意とが、それとともに生じてくるのです。このように、これらの諸方は縁より生じるのです。そこに霊魂の存在することは認められません。』
以上東洋文庫 ミリンダ王の問いから抜粋
どう考えても、ナーガセーナの言うことは正しいと思うのだが。じゃあ、仏教であるはずの寺は何故死んだ人を祭ったりするのかという疑問が生じるが、その話は宗教と哲学の部屋で論じよう。
結論、霊魂は存在しない。