1998/12/13 更新  1998/12/15 挿絵更新


なぜそれは起こったか?

 二度あることは三度ある。ジンクス、縁起が良い悪い。世の中にはなぜか分からないけどそうなってしまう事が多々ある。これはどうして起こるのだろう。いろいろな事象を考察しながら、なぜなぜそれが起こるのかを考えてみよう。

索引

・実際にはありえない、パチンコのリーチ目
・世にも不思議な偶然の一致
・二度あることは三度ある
・因果とは何か?
・過去に共鳴する現在・未来(シェルドレイクの仮説をめぐって)

・結論 


実際にはありえないパチンコのリーチ目

 一度特集記事でも書いたが、パチンコのリーチ目と言うものは、理論的にはありえない。パチンコの当たり目はチェッカーを玉が通過中に抽選されるので、事前にリーチ目が発生することはありえない。もちろん、プログラム的にリーチ目を発生させるようなロジックが組み込まれている場合は除くが、そのようなパチンコ機種は1機種しか報告されていない。それと似たようなジンクスで、1000回転はまると出るとか、ある特定の目で当たりが出ると、その台は絶好調というのも、プログラム的、仕組み的には考えられない。
 しかし・・・、である。本当はありえないはずのこれらの事が、巷ではなぜ信じられているのであろうか? 前に特集記事でも書いたが、データのサンプリングの仕方が誤っているのかも知れない。でも、これだけ信じられていて、本まで出ているということは、何かあると考えたほうが良いのであろうか? では、なぜリーチ目は発生するのだろう。


世にも不思議な偶然の一致

リンカーンとケネディの不思議な関係

 

これは、あまりにも有名な話で、聞いた人も多いかと思う。1860年にリンカーンは大統領に就任する。その100年後の1960年にケネディは大統領に就任する。リンカーンは、J・ケネディという秘書を雇っていた。そしてケネディ大統領の秘書にはA・リンカーンがいた。リンカーンはフォード劇場で、夫人の目の前で、後頭部から頭を打ち抜かれ死亡。ケネディはフォード社のリンカーンと言う車に乗っているところを、婦人の目の前で頭を打ち抜かれて死亡。お互いの犯人の行動も興味深い。リンカーンの場合、劇場で射殺して倉庫に逃げ込んだ。ケネディの場合、倉庫から射撃し、劇場に逃げ込んだ。リンカーンを暗殺したジョン・ウィルクス・ブースは、取調べを受ける前に公衆の面前で射殺された。ケネディを暗殺したとされる、リー・ハーベイ・オズワルドも公衆の面前で射殺された。そして、ジョン・ウィルクス・ブースの生まれた年は1839年。ジョン・ウィルクス・ブースは1939年。ちょうど100年違いである

ガリバー旅行記
 ガリバー旅行記は、イギリスの作家ジョナサン・スィフトが18世紀の初期に書いた小説であるが、ここにも興味深い偶然の一致がある。この小説の中で、ガリバーはラピュタ島を訪れる。その中に火星についての説明がある。二つの衛星があり、火星の周りを回っているというのだ。そして、二つの衛星フォボスとダイモスの軌道周期も正確に描かれているのだ。現在なら常識かも知れないが、火星の衛星発見は1877年である。つまり、150年以上前にスィフトは火星の衛星を知っていたばかりでなく、その軌道までも分かっていた事になる。

(PHP文庫 天子と悪魔のわけまえ より要約)



二度あることは三度ある

トラブルは連続する
 提督は汎用機の基盤系の仕事を主にしている。特に専門はDB/DCで、関連して企業のオンライン系の面倒を見ている事が多い。前勤めていた会社は銀行系だったため、銀行のオンライン系の基盤部分をメンテナンスする仕事をしていた。銀行のオンラインは決して落ちてはいけないオンラインである。従って、連続何日トラブルなしに(落ちることなしに)稼動させられるかを目標としていた。本当に落ちないときは落ちない。1年落ちない事もあった。しかしである。一度小さなトラブルが発生すると、不思議なことに連続して落ち始めるのである。二度三度と。ソフトウェアーに起因したり、ハードウェアーに起因したり。この感覚は今でも変わらない。今でもトラブルが起こり始めると連続して起こるような気がする。

グリセリンはある日突然結晶化した
 グリセリンは炭素が三つつながったアルコールで、甘味料や医薬品、化粧品に良く使われる身近な科学部質である。普通は甘味のある吸湿性の液体として存在しているが、ある温度以下になると結晶になる。ところが、その結晶化に対して、とても信じられない逸話が残されている。ある日を境に、液体のグリセリンが世界中で結晶化しはじめたというのである。
 今から250年前、グリセリンが天然樹脂から初めて抽出されたころ、グリセリンは決して結晶化しなかったそうだ。普通、化学物質の結晶を作るには、その液体を加熱してから冷やせば良いのだが、その時のグリセリンはどんなことをしても結晶にならなかったそうである。グリセリンの結晶体は無いと思われていた。ところが19世紀に入ってまもなく、怪現象が起こった。一樽のグリセリンが、ウィーンの工場からロンドンに運ばれる途中のことであった。どうしても結晶にならなかったグリセリンが、樽の中で突然結晶化したのである。これに興味を持った化学者たちはその結晶を分けてもらい実験してみると、確かにグリセリンは結晶化した。それは摂氏17度前後を境にして起こった。
 同じころである。カナダのブリティシュコロンビア州にあるジャイアント・パウダー・カンパニーという化学会社の工場のグリセリンが結晶化していた。それを知ったカリフォルニア大学のG・E・ギブソンとW・F・ギアウケはその結晶を分けてもらった。彼らは化学会社から分けてもらったグリセリンの結晶を核に使って実験してみると、液体グリセリンは容易に結晶になった。不可解なことはそれから起こった。その化学会社の結晶が届いてから、それを結晶の核に用いなくとも、実験室のグリセリンは容易に結晶化するようになったのだ。そして今では、世界中のグリセリンは17度以下で結晶化するのである。
 ところで、このような現象は昔に限って起きた話ではない。現在でも良く見られる現象だそうだ。世界各地の実験室で、毎年千を超える新しい化学物質が合成されている。それらの物質は初めはきわめて結晶化しにくいが、いったんある形に結晶化すると、今後は容易に同じ形の結晶が得られるのだそうだ。なぜこのようなことが起こるのかは、科学的には明らかにされていない。

(サンマーク出版 なぜそれは起こるのか より要約)


因果から考えてみる


 

このような不思議な現象はどうして起こるのだろうか? 絶対なる神がいて私たちの運命をコントロールしているのだろうか? 私たちは神のゲームの駒のように動かされているのだろうか? 私はそのようには考えない。何か物事が起こると、それが共鳴するという事が起こっているのではないだろうか? 仏教の因果論を例にとって考えてみよう。 仏教の因果論は、原因があって結果があるのが因果論と思っている人が多いと思うが、必ずしもこれは正しいとは言えない。因があっても果が現れない限り、因果関係は成立しない。因も果も単独で存在するものではない。果が無ければ因もないし、因がなければ果も無い。例えばここに一つの花が咲いているとする。花が咲いている因は突き詰めれば種がまかれた事となる。この場合因果関係は成立する。しかし、種はまかれても、花が咲かなかったらどうだろう。花が咲かなかった限り、種がまかれたことは因として成立しない。しかし、この種は今は、因として現存していないが、もしかしたら、来年になれば発芽して花を咲かせ因となり現れるかもしれない。このように因果とは原因と結果が必ず一組として仮に存在するものであ る。因はいつ果を伴うのかはわからない。では、因を果と結びつける力は何であろうか? これが縁である。因と果が直接的な結び付きなら、縁は間接的な力である。先ほどの花の例を用いて話を進めれば、植物の種は、花が咲くための直接の原因であるが、ここにまかれた土、太陽の光、適度な温度、水、花が咲くまでの外的な環境といったさまざまな要素が作用し、初めて花を咲かすことになる。これらが縁である。生まれてきた子供が色々な性格に育つ。これは生まれついての性格もあるだろうが、生まれてきた環境(縁)にも大きな影響を受け、人格が形成される。因果だけでも物事は成立しないし、縁だけでも物事は成立しない。
 この縁は目に見えるものだけではなく、私たちの知らない縁のエネルギーがあると考えてみればどうだろうか? 例えばある現象が起こるとそれがあるエネルギーとなる。あるエネルギーは、同じ縁(エネルギー)を持つものと共鳴しあう。エネルギーは共鳴により増幅され、そこに内臓されていた直接的な物事の種子である因を発芽させ果が生じる。例えばパチンコのリーチ目がもしあるとして考えてみると、ある時に、ある出目の後、大当たりが発生した。この時、ある出目と大当たりの間に縁が発生する。縁というエネルギーは同じ構造をもつ(縁が近い)同じ機種に共鳴し、次にもこれと同じ事が起こる。するとまた縁が発生し、その力は広まっていく。この噂は人々の間に伝わり、この思いは、また一つの縁という力になり、次々と共鳴の範囲は広がっていく。もちろん、パチンコ玉を打ち、スタートチェッカーを通過させるという直接的な因が無い限り果はない





過去に共鳴する現在・未来(シェルドレイクの仮説をめぐって

 ルパート・シェルドレイクという、イギリスの学者がいる。ケンブリッジで生化学の博士号を取った。彼は面白い仮説を立てた。彼の仮説を要約するとこうなる。『現在自然に存在する生物の特徴的な形と行動、また、物理的、化学的なあらゆるシステムの形態は、過去に存在した同じような形態の存在の影響を受けて、過去と同じような形態を継承する。それは「形の場」による「形の共鳴」とも呼ばれるプロセスによっている。』 遺伝現象も、彼に言わせると少し味がつく。彼は、遺伝は遺伝子の働きによるという考え方を否定しない。しかし、彼は、全ての遺伝はDNA(物質的レベルに分解して)だけで説明はつかないと主張する。すなわち、DNAによる遺伝ばかりでなく、過去に存在した同じ種の生物の「形の場」からもその形質を受け継ぐと言うのだ。つまり遺伝現象は、遺伝子と、過去に存在した同じ形からの「形の共鳴」の両方から成り立っていると考える。彼は、これらをラジオの放送に例えて説明する。ラジオのスピーカーから音が出るという現象は、ラジオの機械セットとそれを動かす電源、更にラジオのセットが同調するラジオ局からの電波がなければならな い。これらの要素がそろって、初めてラジオのスピーカーから音楽が聞こえ始める。これと同じように、遺伝現象も遺伝子と、過去の生物との「形の共鳴」がないとうまくいかないというのだ。ラジオの機械セットは遺伝子に相当する。電源は遺伝子を動かすエネルギー。そして電波放送は、過去の同じ形から及ぼされるもの、「形の場」。そして電波への同調が「形の共鳴」に相当するという。放送局がすでに電波を発信しているのに、それが目に見えないからまったくその存在に気づかず、ラジオの機械構造ばかりを研究史、細部に分解する。それと同じ部品を作り出して組み立ててみると、再び音がでる。音はラジオが作り出していると確信する。これでは過ちであると指摘するのだ。


(サンマーク出版 なぜそれは起こるのか を参考にしました)


結論


 過去の出来事が形の場を作り、現在に形の共鳴としてよみがえる。この理論を用いれば、このページで説明した偶然の一致の出来事もなんとなく説明がつく。しかし、なぜそれがあるのかを化学的に証明することなど現在の科学では無理だろう。私たちの態度は、ただそれはあったと捕らえるしかないと思う。それは私たちの人知を超えた不可思議なことだとしておきたいと思う。 




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